衝撃の気づき

無意識の優越感

毎日爽快

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190405-00000077-sasahi-life&p=1

作家・演出家の鴻上尚史さんが、AERA dot. で掲載されていたお悩み相談記事を読んで衝撃を受けた。

がくぜん
がくぜん
“無意識の優越感”
あぁ、これ私やっているわ!
10年以上の友達から絶交されたこともあるし。
まさに私の話や。

「無意識の優越感」や「傲慢さ」は間違いなく私の一部だ。

これは昨日・今日に始まったことではなく、幼いころ妹たちと見ていたアニメ番組での一件にさかのぼる。

中学生くらいのとき「ハウス世界名作劇場」で「小公女セーラ」というアニメが放送されていた。

裕福なお姫様だったセーラが、父の死をきっかけに貧乏で不幸のどん底にたたき落とされる。

しかし、そんな不幸のどん底でも自分を強く保ち、自分の人生を懸命に生きる少女。

私はそんなセーラに憧れ、大好きなアニメの1つだった。

あこがれー
あこがれー
お姉ちゃんなぁ、セーラみたいに強い女性になりたいわ。
セーラって、めちゃいい子やんなぁ。
あきれー
あきれー
はぁ!?お姉ちゃん、なに言うてんの?
こいつ(セーラのこと)、めちゃくちゃ傲慢な奴やで。
自分のこと特別やと思ってる。
ベッキーのことなんか、召使(めしつかい)扱いして見下してるで。
私は大嫌いや。
院長先生がいじめたくなるのわかるわ。
悲しい
悲しい
えぇ、なんてこというの!?
こんなけなげなセーラに対して、そんな考え方ってある?
あんたおかしいんちゃうん?ぜったいひねくれてるわ。

今ならわかる。
妹たちがいっていた言葉の意味。

当時の私は両親をバックにつけ、妹たちを奴隷か家来のように扱っていた。

きっと彼女たちは「セーラの高慢ちきさ」や「ベッキーの辛さ」に敏感だったのだろう。

しかし、そのまま自覚の無いまま、時は流れ、30年以上経った現在、私は未だに「無意識の優越感」を抱き、そして「傲慢・高慢ちき」だ。

いま働いている会社でもちょくちょく指摘された。

  • 「あなたは役員の秘書だけど、あなた自身の役職は平社員なんだから、部長の僕に対してはもうちょっと言葉遣いに気をつけてほしい」
  • 「おまえ、部長の俺に対してそんな口の利き方するな!」

なんて感じ。
そりゃそうですよね。ははは・・・(汗

もちろん、それからは会社では意識して気をつけるようにしているのだけれど、もう自分のアイデンティティの一部なので、気をつけたっていろんなところにあふれでる。

そしたら10年もいる今の会社では、私の「傲慢さ」がみんなのネタになって笑ってくれる。

たとえば、飲み会の席で、部署が移動になった部長や、新しく入った部長に対して。

えっへん
えっへん
私がフォローして助けてあげるから、まかしといて!
爆
おぉー、でたよ。すず猫さんの「上から目線!」いや、もはや「垂直の目線だ!」(笑)

宴会の席の笑いネタだ。

ほぁー
ほぁー
みんな私のよくない癖も受け入れてくれているんだ。
ありがたいなぁ。
すず猫、なんか嬉しい。
みんな!これからも私が助けてあげるから、まかしときや!
爆
懲りてねぇな

 

 

鴻上尚史さんの記事を読んで

今回の記事にある相談者さんと私は違う部分も多くありますが、記事を読む中で「無意識の優越感」が自分の一部にあるという自覚を、あたらためて認識したことがとても新鮮でした。

そして、鴻上さんが感じる感覚の繊細さに「作家・演出家」としての才能を強く感じます。

これも最近認識したのですが、私は「痛みにとても敏感」です。

なので、これまでの人生のなかで、なるべく「痛み」を回避してきたし、「痛み」を感じそうな場面になると、心を逃避させ「痛み」を抑圧してきました。

そうすると「抑圧」が功を奏して、だんだん「痛み」を感じてないように思えてくるんですね。

しかし、残念ながら、この行為はあまり前向きな解決方法ではありません。

なぜなら、自分の一部(感情)を殺すことは、自分の中に空白をつくり、そしてそれは「投影」や「シャドー」となり、他人の欠点として自分人生に登場するからです。

さらには、こんな文章を書くときに表現力や想像力が乏しくなり、あまり迫力のある文章がかけません。

これからの人生、私も鴻上さんのように「痛み」を十分に味わうことができるように、私の心が成熟していくことを切に願います。