つれづれ日記

父の四十九日

毎日爽快

今日は父の四十九日。

さっき表にでると綺麗な青い蝶が舞っていました。
父の事を思い浮かべながら、とても静かな気持ちになりました。

私の父はとても破天荒な人物で、家族はその言動に振り回され、生活が困窮していた時期もたびたびありました。

父の破天荒さは、その生い立ちに起因するところが大きく、私たち家族は様々な方法で、なんとか父をまともに生きさせることはできないか奮闘したものです。

しかし、私たちがどんなに努力しても、父はその生き方を変えることはありませんでした。
きっと父自身がそうしたい(まともに生きたい)と心の底から願っていなかったからだと思います。

父は幼少期のころにつかんだ恐怖や寂しさを決して手放そうとはしませんでした。

そんな父に落胆し、恨み、叱り、恥ずかしいと思い。。。
それでも、やっぱり父が大好きでした。

20代からは住んでいる家が、いつなくなくかわからない状態だったので、なんとか自分の生活をつくるのに必死だった私は「ぜったいに父みたいに失敗しないようにしないといけない」と思い、どうやったらうまく生きていくことができるかを模索しました。

駄目な自分を律して、良いと思えることをどんどん取り入れていったのです。

とても自分に厳しく努力した結果、30代の半ばになんと自分ひとりが安全に生きていける環境を手に入れました。

けれどそんな生活の中、わたしの考え方はとても極端になっていきました。

「よい事」と「悪いこと」がとてもはっきりと分かれていて、その価値観がどんどん自分を追い詰めていったのです。

社会的には「まとも」なんだけど、人間関係はギスギスしていた私は、自分では未知の領域だったカウンセリングなどを受けはじめ心の勉強をすることになりました。

目には見えない心の世界。
疑心暗鬼の中でも勉強を進めるなかで、いつしか父の生き方を受容れ、父を更生させようとしていた努力を手放すことができました。

以前は、父の生きかたを思うと、とてもやり切れない気持ちがこみ上げてきたのですが「世間がなんといおうと、父は自分で選んだ道を精一杯生き抜いた」のだと今は思えるのです。

そして、一緒に生きることはできなくても、世間一般のような家族ではなくても、私が父を愛して、父の幸せを願っていたのは真実だと心からいえます。

世の中には多種多様な「正しさ」があふれていて、時には他の「正しさ」に腹が立ったり、批判したくなるときがあるのだけど、もしかしたらあまり意味の無いことかもしれない。