録画していた昔の映画「プラスチック」を観た。
閉塞感のある社会で生きるイギリスの若者がカード詐欺に手を染め、やがて大きな事件に発展してく話で実話がベースだという。
主人公たちが経済的にも精神的にも追い込まれ、命の危険にさらされる場面では、
「こんな状況だったら、私も犯罪を犯してしまう・・・」
と、すごく共感してしまう自分に恐怖を覚えた。
いや、いやだ。刑務所だけは絶対にいやだ。
ものすごい恐怖が私の中から込みあげてきて、観るのをやめようかとおもったくらい。
しかし、せっかくなので続きを観てみると、最後はとても爽快な気分になる映画で観てよかったと思えた。
さて、私がとても驚いたのは、映画の評判のところで観た人のコメントに
「犯罪は良くないことだ」
「悪いことをしていた人たちが幸せな結末になることが不愉快」
という種のコメントがあったことだ。
ほんとうにこの世間が「画一的」になってきているのだと感じた。
そして、この画一的な価値観が社会に閉塞感を生んでいるのだと思う。
物事を単純に「良い・悪い」で判断し「良いこと」以外は切り捨てようとするような傾向や考え方をする社会は、息苦しさを感じるし、生きていることがつまらないと思えてしまう。
コメント欄で「悪いことをしていた人たちが幸せな結末になることが不愉快」のような意見を書いている人たちは、自分の負の部分をどのように受け止めているのだろうか。
自分の良い部分しか認められないのであれば、それはとてもつらい人生だと思う。
実際に私が正しく生きることに疲れ果て、40歳過ぎに燃え尽きた経験があり、当時とても辛かった。
ちかごろ不倫や違法薬物にかかわった芸能人がインターネットで袋叩きにあう。
人は他人の負の部分を責めている時、一時的に爽快な気分を味わうことができる。
なぜなら、他人を責めている時は、自分の負の部分から目をそらせることができるからだ。
その行為は、いわゆる依存症とおなじなのかもしれない。
ギャンブルをしている時や、お酒を飲んでいるときは現実から目をそらすことができる。
私にはいい部分も、一般的によくないといわれるような部分もある。
同じように社会の中にも「善・悪」「愛・憎しみ」「喜び・悲しみ」その他、言葉を超えるような衝撃的な出来事や想いが入り混じっている。
それらを、自分が生きてきた環境の価値観で判断するのではなく、その物事のありのままの姿でとらえることができる自分になりたい。
「じゃりン子チエ 」を観て、
「親がギャンブルにふけり、子供を働かせる悲惨な物語り」としてみることもできれば、
「自分の置かれた環境で生き生きと自分らしく生きるたくましくも健気な少女の物語り」としてみることもできる。
どんな受け止め方も自分次第。
どんな感じ方する自分でありたいかな。。。